2011年10月29日

自立生活セミナー シリーズ「震災と障害者」


講演会『フクシマからの報告』


お  話:小野 和佳さん(いわき自立生活センター)

聞き手:横山 晃久(HANDS世田谷)



※当日配布資料より、 小野さんのお話の内容を抜粋致しました※




セミナー 20111029①小野和佳さん
◇講師プロフィール◇
小野和佳(おの・かずよし)さん


★1982年11月18日生まれ (先天性の脳性まひ)
★高校3年生で福島県の事業「ふれあいウイング」でアメリカにおいての福祉実情の研修に参加し、自立生活センターの活動に関心を持つ。
★専門学校卒業後、2003年4月よりいわき自立生活センタースタッフとして活動を開始。
★2006年より福島県全身性障碍者等連絡会の事務局を担う。



「1000年に1度の経験」

NPO法人いわき自立生活センター 小野和佳



1.危機管理の甘さと偶然にも恵まれていた環境

○時間が経つごとに増す自分自身の無力感

 その時、携帯電話から私にとって聞きなれない音が鳴り響きました。その音の理由を考え始めてから間もなく、目の前が大きく揺れ始めました。するとすぐに、立てかけてあるホワイトボード、電子レンジ等が大きな音を立てていきます。その音を聞きながら私は無意識のうちに、普段使用している手動式の車いすから降りて、デスクの下に体を小さくして入っていました。
「やはり、小学生時代からの避難訓練は役にたつのだな」などと、妙に冷静な自分がいたことにも驚いています。3分以上続いた強い揺れが多少おさまりかけると、情報を収集するためのツールが、あまりにも不足していることに気付かされました。
 私達のセンターにはテレビやラジオが備えられていませんでした。かろうじて手動で発電し、ラジオが聞け、ライトがつくという緊急時用のものがありました。センターの理事長が外で一生懸命回しながらラジオを聞いています。その間にも短い間隔で大きな揺れが続いていました。私達のセンターは、本部、ホームヘルプ事業部、生活介護事業所アライブが併設されています。少し距離をおいたところに就労継続支援B型事業所ミントがあります。普段20名以上がいるセンターの中が妙な静けさに包まれていました。
 センターの地域は、のちに断水しましたが、電気は止まりませんでした。IHを使用していた為、元々ガスは使用していません。ですが、電気が止まっていたら・・・テレビはもちろん、インターネットも使用できません。それを考えるとぞっとしてしまいます。
ここであえて書かせて頂きますが、この時点、いや、この5カ月以上もの間、私達は「電気に助けられていた」現実がありました
 時間が経つごとに、ラジオから流れるニュースと私達の現実がリンクしていきます。
16時にAさんに入る予定のヘルパーがあわててセンターへやってきました。「道路が水で溢れていて通れません。」その時、あらためて実感したことの重大さにハッとしました。
 生活介護事業所アライブを利用していたAさん。当日は、いつもより早めに帰宅し、ベットで16時から支援に入る予定のヘルパーを待ってた最中でした。津波による被害で亡くなられました。災害にとって時間や場所など関係ありません。災害は2次、3次被害を招く怖さがあります。私は時間をおうごとに自分の無力さを感じていました。そして、「人災」と呼ばれるものまで引き起こされることになるとは考えてもいませんでした。

○自立生活の充実さが生んだ弊害と、偶然にも恵まれた環境
 自立生活センターのヘルパーを利用し、一人暮らしをしている障がい当事者にも様々な弊害がおきました。

①エレベーターの停止
 強い揺れが起こると、エレベーターは緊急停止をします。問題は、各地で同時に緊急停止が起きると、復旧までに時間がかかるという点です。この状態になると、復旧作業が完了するまでの間、部屋を出るためには、人手が必要になります。地震等による災害が局地的に起きた場合であれば、人手を確保することも可能かもしれませんが、今回の様な広範囲になると、人手を確保することも厳しくなるというのが現実でした。

②連絡手段
 固定電話を引いている単身者はどの程度いらっしゃるのでしょうか?震災後、災害時に連絡を取る手段として、「固定電話」、「公衆電話」、「スマートフォン」等があがりました。ですが、自立生活している障がい当事者は固定電話を引いていない方も少なくありません。
公衆電話は携帯電話やスマートフォンの普及により減少しています。そのスマートフォンも障がい当事者にとって、必ずしも使用しやすいとは限りません。
 私達にとって「使いやすさ」や「便利さ」とはどういうことをいうのでしょうか?
いつでもどこでも話ができる携帯電話。私達が本当に声が聞きたいときはまさに今回の様な「緊急時」なのだと実感しました。人間の力で創りあげたものは、必ずしも絶対ではないということも、痛感しました。
 ただ、私達にとって恵まれていたのは、昨年の10月に、 本部とホームヘルプ事業部、生活介護事業所アライブを1つの敷地内に併設させたことにより、一時的な避難所として活用できたということです。
トイレが4つあり、生活介護事業所アライブに静養室が2か所あります。ここに、エレベーターが復旧するまでの間、2名の障がい当時者が一時的な避難所として生活をしていました。

2.起きてしまった人災そして避難の決意

①無関心だった原発
「原発が水素爆発だって!!」ラジオでニュースを聞いているスタッフが慌てて知らせに来ました。
 このときから、この生活は「1次的なもの」と、どこか楽観視していた自分の周りの空気が一変しました。テレビやラジオのニュースは原発の事故関連ばかり。日々テレビ解説者の声に耳を傾け、不安を抱きながら、安心したり、怖くなったり、また不安になったりと地震や津波の被害で不安な県民の気持ちにさらに追い打ちをかけていきました。
 やがて、それぞれが原発に対して不安な気持ちを抱え、それぞれが個人個人の行動にでます。
 燃料棒が剥き出し、空だき状態になっているというニュースが入れば「家族を連れて避難をしたい」、「すでに避難をしている」、「家族だけを避難させざるを得ない障がい当事者。」気付けばニュースに翻弄され、日に日に人々の動きが変わっていきます。
 さらには、物流の停止、ガソリンの激減、それによって、医療機関の機能が停止。そして私の住む福島県いわき市はゴーストタウンと化しました。
今、考えると、あの時避難を決行し、即原発から距離をとった方々は正解だったのかもしれません。なぜならば、その時国が発表した内容と現在公表されている情報とは全く変わってきていますので。
 その当時、避難を決断した方々を決して責めることはできません。ですが、障がい当事者は、車に乗るためにヘルパーの支援を必要とします。食事をするのにヘルパーの支援を必要とします。障がい者自身も防災、緊急時対策というのも真剣に考えなければならないと思います。ですが、どのような対策を取るにしても、介助を必要とする障がい当事者にはヘルパーの力、協力は必要不可欠です。今までの信頼関係がある以上、ヘルパーを抜きにして防災、緊急時対策を練ることは難しいと思います。
 事業所と障がい当時者は今回の教訓を踏まえ、緊急時の対応というものを明確に話し合っておく必要があると考えます。それと同時に原子力発電所ではそのようなリスクを抱えながら発電をしていた。そういったことにもっと関心を持つべきだったと思いました。

②避難の決意
 前段でも、少しお伝えしましたが、いわきは原発の事故以降、日に日に人が減っていきました。そしてついに、訪問看護が必要な人へも看護士が迎えない状態になってしまいました。当法人の理事長はこの出来事が避難を決意する大きな出来事になったとおっしゃっています。訪問看護も少しでも近い場所であればと、訪問看護が必要な方も生活介護事業所アライブへ合流し、看護を受けていましたが、それも不可能になってしまいました。
 いよいよ避難の決断をしなければなりませんでした。 その時、原発の事故は当時の政府の発表によると、30圏内に住む方々に屋内退避の支持を出していました。私達は、「医療等が必要な方の為に」、「全介助が必要で、緊急を要する方の為に」、「物資をいわきへ定期的に届ける為に」ということを大きな目的として避難を決意しました。もちろんそこには、ヘルパーと障がい当事者が一丸となって避難する前提があってのことです。その為にははもちろんその家族も一緒避難できる事が条件になります。

③当事者団体の力 支援者・救援者にみなさんで拍手を!
 前段で申し上げた、ハードルの高い避難の目的や条件を実行する為には、当然次にあげられるような課題がありました。
①ガソリンが無い ②避難をする人数が、50人以上と想定されるが、その様な場所を確保できるのか。
正直この状況下において、この二つのハードルを越えるのは大変厳しいと私は思っていました。
 その前に一つ、この時の私の心境をお話させて下さい。ここから、避難の準備に取り掛かるまでの間、私は事業所の力に何一つなっていません。正直、何をどうしたら良いか分からない日々が続きました。理事長を中心に健常者スタッフが懸命に動いてくれている中、何もできない自分にいら立ちさえ覚え、疎外感も生まれました。しかし、今冷静に考えると、私は当時の自分の心境をこの様に振り返ります。まず、疎外感を感じた自分を反省しています。
 自立生活センターとは当事者の主体性を大事にした団体です。責任を担う役職等にも障がい者が就いています。私は自分自身で、この状況下で自分は役に立てないと決めつけてしまっていました。私自身、法人の理事を担っていますが、この考え方は誤っていたと反省しています。この様な事態だからこそ、自立生活センターが日頃より大事にしている、「私達はサービスを受ける立場だけではなく、担い手にもなりえる」という言葉にもあるように、自分が今できることをしてこそ自立生活センターのスタッフだったと反省しています。
 私がなぜ、この時の心境を先にお話しさせて頂いたかというと、避難の準備から避難生活をした1カ月以上もの間、私は当事者団体のネットワークと力をこれでもかというほど体感させて頂いたからです。震災が起き、県内の福祉関係団体はそれぞれが日頃からのネットワークを通じ、懸命に、救援と支援を並行してきました。自立生活センターも全国のネットワークを駆使して、この様な支援をして下さったことに感謝の気持ちと少しホッとした気持ちがありました。
 話を少し戻します。 3月16日、私達はまず法人が加盟するJIL(全国自立生活センター協議会)のメーリングリストで、避難先の確保とガソリンの調達の救援を依頼しました。すると3時間後には「東京都新宿区にある戸山サンライズ(新宿区障害者総合福祉センター)に50人分確保できました。と連絡がはいりました。ガソリンは各センターが20リットルの携行缶の確保の為にホームセンターに走り、翌17日には、なんと広島県の自立生活センターから1昼夜かけて200リットルのガソリンが届けられました。18日には静岡から30リットルが届きました。私には各自立生活センターの障がい当事者スタッフのみなさんが、的確に指示をだし、自分達の活動と並行して私達の救援活動に汗を流して準備に取り掛かってくれている姿が目に浮かびました。私達はセンターの利用者、ヘルパーに呼びかけをし、最終的に集まったのは、34名(利用者8名・ヘルパー10名・本部員3名・家族13名)でした。
 この人数の内訳に様々な事柄が表されています。やはり、知らない地域に行く不安、初めての人に介助されることへの不安、他の家族が残ると言えば一人で避難することはできない・・・等の理由からです。もちろん、いわきに残るといった方への支援を停止する訳にはいきません。そのた為のヘルパーもいわきに残って頂くこととなりました。
 戸山サンライズへの避難は、いわきに残り懸命に生活をする障がい当事者の方、それを支える介助者や支援員の為でもありました。この記事を読んで頂いている皆様には是非、いわきで残り、1カ月間懸命に生活してきた方々の思いも伝えたいのです。
 一方、戸山サンライズへ避難するメンバーは5時間をかけ、到着をしました。

■つづき 「フクシマからの報告」②へ■

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